「トライボロジー」という学問をご存知でしょうか? 物理学のひとつで、「摩擦・摩耗・潤滑」について研究する学問です。
物体と物体が接触し、こすれ合うときに生じる摩擦。我々の生活ではあまりにも身近すぎて、意識することも少ないですが、実は宇宙開発にも関わる重要なものです。
とはいえ、ジャンルとしては高校レベルの物理に相当するため、人によっては学んですらいない人も多いはず。そんなトライボロジーについて、目の前で起こる体験を通して学習できるワールドが「Tribology World」です。
専門性の強いワールドながら、訪問数はまもなく1万人。モバイル対応(Quest対応)もされているのでアクセス性も良好。さらに、一般社団法人 日本トライボロジー学会主催のイベントにて出展の機会を得るなど、専門家からの注目も集めているすごいワールドなのです。
本記事では、学びに興味がある人にぜひ訪れてほしい「Tribology World」を、制作者のひとりであるhinorideさんのインタビューも交えてご紹介します。
摩擦の基本を体験しながら学ぶ
「Tribology World」のメインコンテンツは、摩擦の法則に関する体験コーナーです。全部で3つの体験コーナーには、目の前に文章パネルが表示。手元のボタンを押すことで、読み進めることができます。
各コーナーの真下には、巨大なオブジェクトとピストンのようなものが。ピストンに記された「10N」は、物体を押す力を表現しています。
パネルを読み進めて進めていくと、「どうなるか考えてみましょう!」という問いかけが発生します。まずは、「4kg、2kg、1kgの物体を同じ力で押したとき、一番遠くへ動くのはどれか」という問い。ぜひ一度考えてみてください。
一通り考えたら、手元のボタンを押してみましょう。
すると、物体がピストンに押されて、実際に動きます! この体験コーナー最大の特徴は、問題の解答を「実際に見る」ことができること。自分で考えてから、答えを「動き」として見るという体験学習ができるのです。
体験コーナーでは、物体の質量だけでなく、形状、材質、潤滑油の存在など、さまざまな条件を変えて、同じように「実際にはどうなるか」を体験できます。パネルと合わせて、能動的かつわかりやすく、摩擦の基本的な法則について学ぶことができます。言うなれば「体験型教科書」ですね。
そして、学んだ成果はゲームコーナーで活かすことができます。ここで遊べるゲームはカーリング。ストーンを投げ、ゴールへピタリと飛ばすスポーツです。
しかし、ここで遊べるカーリングは「ストーンの素材」、「リンクの油の有無」がランダムで変動します。さらに「ストーンの形状」も自分で決める必要があり、その上で投げる方向や力加減は、プレイヤーに委ねられます。
難易度は相当高いですが、この3つの要素は、体験コーナーで学べることです。ここまでの知識を総動員し、変化する諸条件を見極めながら、絶妙な加減でストーンを投げ、得点を狙いましょう! 1人での挑戦はもちろん、2人対戦もできます。
このほか、トライボロジーの歴史を紹介したり、より詳細なことを学べる展示コーナーも用意されています。また、体験コーナーの間には「トライボロジー小話」というサブコンテンツも。一通り見て回れば、トライボロジーの基礎知識は押さえられるはずです!
制作者インタビュー
このワールドを手掛けた中心人物は、大学時代からトライボロジーを研究してきたhinorideさん。学術イベントの先駆け「理系集会」のコアメンバーでもあった人物です。
今回、ワールド公開一周年と、一般社団法人 日本トライボロジー学会主催イベント「トライボロジー会議」への出展というタイミングを機に、「Tribology World」の歩みとこれからについてお話をうかがいました。
きっかけは「理系集会」
――「Tribology World」はどのような経緯で誕生したのでしょうか?
hinoride 最初のきっかけは「理系集会」です。始動してからしばらく、ゲスト登壇者も少なかった中で、一度自分が登壇してトライボロジーについて解説したのですが、これが好評だったんです。驚くと同時に、「トライボロジーの発信っておもしろいかも?」と考えるようになりました。
その後、スタッフが増加し、ワールド制作に長けたのりたまさんが加入したときに、「トライボロジー解説ワールド、制作できるのでは……?」と考え、お願いしたところ、快諾いただけました。こうして2022年、「Tribology World」のプロトタイプが完成しました。
――当初は、デザイン面では簡素なつくりでしたよね。ここから現在の形になるまでには、どのような経緯があったのでしょう?
hinoride 「バーチャル学会」での発表がきっかけです。発表後、「バーチャル学会」の会場制作を手掛けていたきつねこ狐猫さんと知り合い、「ぜひもっと素敵なワールドにしましょう!」とご提案いただいたんです。こちらとしても願ったり叶ったりでしたので、制作を依頼し、昨年に現在の「Tribology World」が完成しました。BGMも、プロトタイプ版からお世話になっていたえなじ〜さんにお願いし、素敵な音楽を制作いただきました。
――公開後の反響はいかがでしたか?
hinoride 1年ちょっとで1万人近くの方に来ていただいて、ありがたい限りです。トライボロジーを知らなくても、カーリングゲームだけでも楽しめるようなつくりにしておいたのが功を奏したのかなと思います。
一方で、東京大学の「UT-virtual」というサークルの方が遊びにいらっしゃったときは、「トライボロジー小話」を熱心に読まれていたのが驚きでした。「ここを見てくれるんだ!」って。あと、高校物理の内容で構成されたワールドにも関わらず、さまざまな方々からも楽しかったという感想を投稿されていたのは、うれしい予想外でした。
――体験コンテンツがメインの「Tribology World」ですが、スライドギミックや、人が集まるスペースも用意されています。このワールドを活用したイベント活用などはされていますか?
hinoride 「トライボロジー勉強会」というイベントを開催するときに活用しています。トライボロジーに関する本の輪読会で、専門の人もいれば、お話を聞いているだけの人もいます。国会図書館に無料で公開されている書籍を対象に輪読しているので、ご興味ある人がいればぜひ訪ねていただければと思います。
開催日は、基本的に毎週火曜日22時から。Friend Onlyで開催しているので、hinorideにフレンドリクエストの上、時間になったら私のいる会場へご参加ください。トライボロジーそのものというより、トライボロジーの学問史を追いかけているので、専門外の方でもおもしろいかと!
トライボロジーってどんな学問?
――このワールドではトライボロジーの基礎的な部分を学ぶことができますが、トライボロジーについて知らない人に向けて、この学問領域を解説するとしたら、どのようにご説明されますか?
hinoride 「鉛筆で文字が書けるメカニズムの解明に関する研究」でしょうか。「鉛筆を同じところでこすり続けると、だんだんとツルツルになりますよね?あれが炭素の低摩擦性を示すんです」という説明をよく使います。この説明はけっこう共感を得られます。
あと、一例としてよく挙げるのはスキーですね。トライボロジーはいろいろな学説が存在する学問領域なのですが、スキーが滑ることについても「雪と板の間に水の膜ができて滑る」と唱える人もいれば、「水の膜はない。雪自体がやわらかいので、抵抗が減って滑りやすい」と唱えるひともいるんです。
――学説がいくつも存在する、というのは興味深いです。それはなぜなのでしょうか?
hinoride 数学のように、ひとつの理論が存在しないためです。「まだ実証はされていないが、いろんなことがいい感じに説明できる」というような学説はいくつかあります。というのも、摩擦という現象は「不透明なもの同士のこすれ合い」なので、観測が非常に難しい。なので、基本的には推測するしかないのです。
あと、パラメーターが多いのも一因ですね。摩擦するにしても、どこでやるのか、湿度や温度はどうか、気圧はいくつか、空気中にほこりなどは舞っているか、などなど、不確定要素がとても多い。なので、考える上では理想環境を持ち出すことが多いですね。
――「Tribology World」の体験コーナーも、理想環境下での摩擦を想定されていますよね。
hinoride はい。真空中を想定しています。あと、物質の表面のざらざら感なども、ある程度制御できる空間です。70年前くらいにトライボロジー界の大御所が執筆した本を参考にしています。
――こうしてお話をうかがってみると、あらためて奥が深い学問だなと思わされます。なんなら、いま僕がこうして足を動かすだけでも、床と足との間で摩擦が発生しますよね。こうした何気ないことを考える学問だなと。
hinoride 足を床の上で横にスライドしたときには、厳密には床と足がちょっとだけくっついて、それを引き剥がす際に摩擦が発生する、というのがいまのメインの学説ですね。ただ、それならば、足を上に持ち上げたときにも、足から床を引き剥がすため、同様に摩擦が生じるはずです。でも、実際には、床がベタついているような状況を除くと、そんな感覚はないですよね。
こうした事象の解明余地もあるとおり、摩擦の理論は存在するものの、まだ完璧ではないというのが実情です。だからこそ、現在もたくさんの方々が研究に打ち込んでいます。
専門家たちの反応は?
――先日、日本トライボロジー学会のロゴがワールドに掲載されたことには驚きました。「トライボロジー会議」への出展も含めて、どのような経緯があったのでしょうか?
hinoride 昨年の「トライボロジー会議」にて、東京工業大学の長谷川晶一先生に「このワールドを紹介いただけないか」とお願いしてみたんです。すると、実際にご紹介いただけた上、学会にいらっしゃる本職の方々にも「Tribology World」が知られるところになり、学会としてプッシュいただけることになりました。今回の「トライボロジー会議」への出展が、そうしたプッシュいただいた事例のひとつです。
――トライボロジー研究を行う本職の方々からは、どのような反応がありましたか?
hinoride 総じて好印象です。学会内で本格的に動くとき、バーチャルデータサイエンティストのアイシア=ソリッドさんの紹介配信を学会の方々にご覧いただいたのですが、ご好評だったようです。VRでこうした活動をしていることを前向きに評価していただいた上に、内容としても特に問題はなかったというお話ももらい、本当にありがたかったですね。
――今回の「トライボロジー会議」での出展では、どのようなコンテンツを体験できるのでしょうか?
hinoride 来場される方はトライボロジーの専門家ですが、VRに関しては不慣れな方が多いと想定し、カーリングゲームをメインに体験いただく予定です。時間があればワールド内もご見学いただく予定ですが、VRChatの操作は意外と複雑ですし、不慣れな方が動くとVR酔いのリスクもあるので。
とはいえ、「Tribology World」の体験を通して、VRという「未知なもの」を楽しんでいただける機会になれればと思います。ちなみに、VRChat運営や、体験時に使うアバターの『シアン』の作者さんなどにも、しっかりと許諾をとっております。
――「トライボロジー会議」は一般参加は可能でしょうか?
hinoride 参加登録は22日で終了しています。ただ、「特別フォーラム」というコンテンツに関しては、現地は300人、Zoom配信では100人まで、無料で聴講することができます。今回は、神戸大学の先生が登壇し、ウェアラブルデバイスなどについてお話しいただく予定なので、VRChatユーザーが聞いてもおもしろいかと思います。ご興味あればぜひ。
――ふと疑問に思ったのですが、学術領域の専門家の方にとっても、VRはまだまだ見慣れないものなのでしょうか?
hinoride 学会の上席の方とお話しした際には「メタバースという名前を聞いたことはあるものの、実際どんなものなのかはよくわからない」という反応が多かったですね。こちらから説明をする際には『マトリックス』や、お子様がいらっしゃる方には『フォートナイト』を例に出すと、理解していただきやすいですね。
日常の解像度をちょっと上げるきっかけに
――「Tribology World」の今後の展開はなにか予定されていますか?
hinoride 新しいコンテンツを追加予定です。引き続きモバイル対応は維持したまま、トライボロジーをより深く学べるように改築中です。公開されたらぜひ遊びにきてください!
――最後に、「Tribology World」へこれから訪れる人に、トライボロジーを学ぶことでどんなことが得られるか、お話しいただければと思います!
hinoride 摩擦はとても身近なものですが、そこにはこれまでいろんな人が立てた理論が存在することを、このワールドを通して体験し、学ぶことができます。
そして、トライボロジーを学ぶことで、日常でものごとを見ていくときの解像度がちょっとでも上がってくれればな、と思います。ふだん意識していない身近なものでも、奥深いものがあるんじゃないかという目線で見ることで、みなさんの人生が楽しくなってくれるとうれしいですね。
あとは、学生の方がこのワールドをきっかけにして、トライボロジーの研究者になってくれるとうれしいですね!