VRC〈ブイチャ〉で映画を撮る前に… 【第6回】最高の敵キャラクターとは何か? その②

映画プロダクション「カデシュ・プロジェクト」代表のだめがねさんのVRChat映画制作するために必要なことをまとめた連載企画。第6回では、前回に引き続き敵キャラクターの作り方について紹介。

6.映像作品作りの前に────敵を作ろう その2

前回に引き続き、今回も敵キャラクターの創り方についての話題です。敵キャラクターは主人公の鏡写しであり、その造型は主人公の在り方に大きく影響されます。今回はその2番目、「主人公が既に戦っている場合」の敵キャラクターの創り方についてお伝えしたいと思います。

(1)主人公が「既に戦っている」場合の敵キャラクター造型

このパターンは、ヒーロー型主人公の作品、もしくは人間型主人公の続編に当てはまるケースです。主人公の造型については、コラムの第4回をご覧ください。

さて、主人公が既に何らかのトラブルと戦っている場合は、「主人公がヒーローになったがゆえに生じた敵」を相手にするのがベストです。それはつまり「主人公が正義の味方であり、人々のために戦っている」が故に襲いかかってくる敵ということであり、往々にして巨悪、純粋悪が据えられることが多いです。このパターンは、優れた教材となる映画が非常に豊富です。中でもとびきりの1作品を例にとって、敵の作り方とその意味を考えてみましょう。

(2)ケーススタディ:『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン監督/2008)

本作はクリストファー・ノーラン監督による『ダークナイト』三部作の2作目にあたり、主人公は言わずと知れたスーパーヒーロー「バットマン=ブルース・ウェイン」です。1作目で故郷ゴッサム・シティを守る闇の自警団となった彼の前に立ちはだかるのは、目的・出自の全てが謎に包まれた犯罪者、ジョーカーです。

一方、動機は非常に明快で、ジョーカーはブルースを「バットマンだから狙っている」と作中で明言しています。つまり、ただのブルース・ウェインであったころにはまるで興味がなかったが、彼がバットマンになったからジョーカーは襲ってきているわけです。明確に「主人公がヒーローになったがゆえに生じた敵」であると言えます。では、なぜこのような敵をぶつけるのでしょうか?それは、「ヒーローになどなるべきではなかったと思うか?」という問いを主人公にぶつけるためです。

最近は超能力を持ちマントを羽織ったアメコミ的なキャラクターを「ヒーロー」と呼ぶためややこしいですが、ヒーロー自体は「英雄」ないし「主人公」を意味し、その言葉自体にアメコミ的なニュアンスは本来ありません。しかし、「英雄」と「主人公」を意味する語が同じ「ヒーロー」なのは示唆的です。つまり、多くの場合観客は主人公に英雄的な行いを期待しています。マントを羽織り空を飛ぶだけでなく、スポーツ選手や軍人、あるいは悪との境目にいるスパイのようなキャラもそうです。主人公である限りはすべからく、英雄的な行いを求められます。

そして、そういった行いには必ず戦いや衝突が伴い、犠牲が生じます。だからこそ、物語においては主人公たちに問う必要があるのです。「こんなこと、やめておけば良かったか?後悔しているか?」と。もちろん、答えは否です。観客は、この「否」を突き付ける瞬間に最大の期待をしています。それこそが、このパターンの敵役に求められる最大の役割です。戦いに身を置いている主人公は、巨悪との戦いを通じて後悔をはねのけ、本物の英雄となる必要があるのです。

『ダークナイト』においてはそれを際立たせるため、主人公・ブルースの恋人の命をジョーカーが奪います。彼にとってはこの上ない後悔でしょう。それでも彼は、ヒーローをやめません。ジョーカーの投げた「後悔しているか?」という問いに、バットマンは特大の「否」を投げ返したわけです。

このように、既に戦う覚悟が出来た主人公に対しては、その精神をなおも揺るがすためにパワフルで悪辣な敵が求められます。あるいは、主人公と肉体的・精神的な繋がりがあったり、因縁を持たせることで主人公を揺さぶる場合もあります。

(3)余談:おカネがあってもダメなときはダメ

こういったセオリーを外してしまったがゆえに興行的にも作品性の面でも咲ききらなかった作品が多くあります。作品の良くない部分をあげつらうのは心苦しいですが、良い教材なので1作品だけご紹介します。『007/慰めの報酬』(マーク・フォースター監督/2008)です。

本作は人気シリーズ『007』の現行シリーズ2作目にあたる作品ですが、1作目が辛辣な下馬評をはね除けて大変な成功を収めたのと裏腹に、残念ながら賛否両論に終わりました。2作目に求められる「巨悪」をきちんと演出できなかったことが大きな理由だと筆者は考えます。本来、本作の敵には長年007シリーズにおいて主人公の宿敵となってきた「スペクター」という組織が据えられるはずでした。セオリー通りの巨悪です。

しかしながら、過去のシリーズで起きたトラブルで原作サイドと映画制作側の間で訴訟が起きており、その余波で「スペクター」という組織と、その首魁であるブロフェルドのキャラクター設定が使用できない状態になっていました。結果、類似する設定の別組織を出してみたものの、結果はご覧の通りです。このように、十分な予算とモチベーションがあってもなお、観客が求めるものを提供できなければ映像作品はいとも簡単に失敗してしまうのです。

おまけ:こりゃ悔しい!のコーナー

コラムの最後に、筆者が「こりゃ悔しい!」と感じたまだ見ぬ名作VRChat映像作品をご紹介いたします。

第6回:VR音楽劇「HarmonicA」(九条林檎監督/2023)

初めにお断りしておきますが、本作には筆者も関わっております。その意味でコーナーの趣旨に反する部分もありますが、それでも本作をご紹介したい理由があります。それは、「『観てもらう』ことへの意識の高さ」です。本作は元々VRミュージカルですが、公演を収録した映像が第2回VRCムービーアワードに出展され、見事音響音楽賞を受賞しました。

演劇にとって映画賞はアウェー戦であり、そこで賞を受けることは並大抵のことではありません。受賞できた背景には作品の完成度の高さももちろんありますが、加えて前出の「『観てもらう』ことへの意識の高さ」があったと考えます。

筆者は第1回・第2回ともにVRCムービーアワードで審査員を務めておりますが、演劇作品は客席の定点から撮影した映像がほとんどでした。一方、本作は「映像作品」として成立するようにカット割りを吟味しており、カメラワークも優れています。映像の舞台で勝負をしようという、意気込みとリスペクトが感じられました。その意義は、結果を見れば自明です。翻って、私たちは作品を作るときに「観てもらう努力」に意識を向けているでしょうか?

明瞭なカメラワーク、わかりやすいタイトル、SNSでのプロモーション──これだけ娯楽が飽和している時代ですから、良いものを作ればおのずと観てもらえるという考え方はナイーブに過ぎるように思います。VRChat映画はほとんどが非営利なので、作り手にそこまでの努力を求めるのは酷かもしれません。ですが、観客も「時間」という貴重な代価を払って作品を鑑賞してくれています。それに報いる方法は、作品外にもあるのではないでしょうか。

ABOUT US
だめがね
2020年、VRChatを開始。VR空間での映像撮影に可能性を見出し、クリエイターチーム「カデシュ・プロジェクト」を結成。 同スタジオの代表を務める傍ら、デザイナーとしても活動する。映画監督としての代表作に『プロジェクト:エメス』『掌』、 アートディレクターとしての代表作にVRChatワールド『Tokyo Mood by BEAMS』がある。